※2018年11月01日に公開した記事ですが、リライト記事に必要な文言等を追記、その他の部分も修正して2019年1月24日に再度公開しました。
遠州七不思議の1つ、京丸の里の「京丸牡丹(きょうまるぼたん)」について調べました。
この記事では「京丸牡丹の正体」「咲いている場所」などをご紹介いたします。
京丸牡丹とは
京丸牡丹とは、浜松市天竜区春野町小俣の川「気田川(けたがわ)」の川沿いに、7年、10年、また60年毎に咲くと言われる巨大牡丹の事です。
京丸牡丹の大きさは、上画像のような唐傘大と言われています。
京丸牡丹の正体
京丸牡丹の正体は、「京丸の里」の掟により恋路を引き裂かれ、気田川で心中した男女の魂と言われています。
京丸牡丹にまつわる悲しいお話しがありますので下に掲載させて頂きました。
昔、遠州の山中で迷った旅人が、たまたま京丸の里に辿り着きました。
疲労と空腹で瀕死の旅人でしたが、村長とその娘の介抱により、一命をとりとめました。旅人は元気になると、恩返しのため畑仕事や薪割りを手伝いました。
そして、手伝いをしている中で、村長の娘と恋人になりました。しかし村には「他村の者と結婚することを禁止する」という厳しい掟がありました。
村長が掟の事を旅人に伝え、2人を村からしかし安住の地を見つける事ができず、気田川で心中。
その魂が今も気田川を漂い、牡丹となり姿を現します。
2人の愛の大きさと美しさが、そのまま京丸牡丹の姿となり気田川を彩るそうです。
京丸牡丹はどこで見れるの?
京丸牡丹が姿を現すエリアは「気田川」の川沿いで見れます。
いろいろな説ある為、あくまで可能性の話
咲いている時は、気田川に花片が流れるそうです。
下の地図上、左のピンが気田川。
右のピンが舞台となった京丸の里のある京丸山です。
京丸牡丹の舞台「京丸の里」について
京丸の里は、標高1,439mの京丸山にある村です。
1300年代から村は存在していましたが、1600年頃まで発見されなかった為「隠れ里」とも言われています。
発見された理由は、京丸の里が豪雨で水害を受けた際、下流の村に流れた茶碗が見つかったからだそうです。
京丸の里の歴史
京丸の里の歴史は、1300年代に京都から来た1人の男が、ここに住み始めたのが始まりです。
男の名前は、藤原左衛門佐(ふじわらさえもんざ)。
「平家の落人」や「南朝の落人」だったという説があります。
いずれにせよ京都から来た人だった為、京都の「京」の字を村の名前に入れ「京丸の里」としたそうです。
京丸の里には、1930年まで人が住んでいた?
驚くことに、京丸の里には 1930年まで人が住んでいました。
その方の住んでいた家は、「京丸藤原家住宅」と呼ばれ今も残っていています。
歴史的に貴重である為、民族学者の折口信夫さんは実際に足を運び、宿泊もされたそうです。
すごい事だ、、、
京丸の里「京丸藤原家住宅」はどこにあるの?
京丸藤原家住宅は、京丸山の「京丸の里」にあります。
実際行かれた方のブログに写真がのっていました。
参考 京丸の藤原家|ちょこっと日帰り旅行
おまけ
秘境と言われると、なんだかワクワクしますよね。
もし行ってみたいと思った方は、なかなかハードな山登りになると思うので、しっかり準備をして行かれて下さいね。
熊が出る可能性もあるので、熊対策もお忘れなく!
最後までお読みいただきありがとうございました。
またきてんぐ!