前回、引佐町四方浄(しほうじょう)と、仏像を置いたとされる四方の地域との位置関係について調べました。
今回は、四方に置かれた仏像がその後どうなったのかを紐解いてみたいと思います。
ますは東の薬師如来から!
簡単なおさらい
奈良時代、政府が恐れるほどのカリスマ性を持った、すごい僧『行基(ぎょうき)』の故郷が『引佐町四方浄(いなさちょうしほうじょう)』だったという説があります。(世間一般には大阪堺市)
四方浄の名前の由来は、四方浄を囲い、四方(東西南北)に、行基が自ら彫った仏像を置いた事から名付けられています。
東(引佐町川名)には、病気に効果抜群の『薬師如来(やくしにょらい)』
西(引佐町的場)には、極楽浄土に連れて行ってくれる『阿弥陀如来(あみだにょらい)』
南(引佐町伊平)には、人々の苦しみの声をしっかり聞き、みんなを救ってくれる『観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)』
北(引佐町別所)には、生まれてすぐ7歩あるき、地球上でただ一人、仏のさとりを開いた『釈迦如来(しゃかにょらい)』
GoogleMapの機能を使って地図で位置関係を表すとこんな感じです。
紫のピンが引佐町四方浄。
ピンクのピンが仏像が置かれた四方の地域です。
東の薬師如来は今どうなっとんの?
『東の薬師如来は、川名に置いた』とされています。
川名は、引佐町川名の事ですね。
調べたところ、四方浄の東に置かれていた薬師如来は、浜松市北区引佐町川名『福満寺薬師堂(ふくまんじやくしどう)』にあります。
行基が作ったものはお寺と一緒に焼失してしまいましが、その思いを受け継ぎ、井伊家の8代当主『井伊泰直』の孫『直貞』が、1426年にお寺の再建&『薬師如来』も製造。
その薬師如来は今もあるとの事です。
新しいとは言っても、1426年に作ったので長い歴史がありますね。
『井伊泰直』の孫『直貞』って誰やの?
井伊家の8代当主『井伊泰直』は、大河ドラマ『女城主 直虎』の主人公兼ヒロイン井伊直虎のご先祖。
直虎のお父さん『井伊直盛(いいなおもり)』が22代なので、むーーーーーちゃ先祖ですね。
でもその孫である『直貞』 は井伊家の家系図に乗っていません。
なぜかというと 、泰直の子であり、直貞のパピーの直助が分家した(井伊家を離れた)からです。
その後、直助の子、直貞は『渋川太郎二郎』と名乗り、このあたりで井伊家と同じくらい力のある『渋川グループ(渋川井伊家)』を作りました。
浜松市北区引佐町渋川に低い山があり、そこのお城もあったみたいです。
福満寺薬師堂はどんなお寺?場所は?
渋川井伊家の直貞が生まれるもっと前にさかのぼります。
奈良時代(710年~794年)の末期と言われているので、行基が薬師如来を作ったくらいに作られたと予想されます。
もしかしたら一緒に作ったのかも?
当時は12の塔頭(たっちゅう)をかかえる大寺院と言われていますが、現在は薬師堂のみです。
福満寺薬師堂は、八日堂とも呼ばれています。
福満寺薬師堂で行われている、国指定重要無形文化財『川名ひよんどり』というお祭りが、1/8に行われていた事が由来です。(今は1/4っぽい)
最後に
行基の故郷『四方浄』の一角を守る『川名』という場所は今もあり、姿は違えど、行基の思いを繋いだ薬師如来も存在しています。
薬師如来のある福満寺薬師堂で400年前から行われていた、国指定重要無形文化財『川名ひよんどり』も見てみたいな思いました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
おわり